鳥羽和久

有無を言わさぬシステム網が子どもたちをあらかじめ制御しているので、それに身を委ねていたら、あなたは自動的にいい子になる。いまはそんな社会です。 でも、物事の善悪というのは、本来、自分の身体を使って学んでいくべきものでしょう。それなのに、大人は慎重にふるまうことを教えるばかりで、勇気をもって試してみるということをあなたに教えません。あなたが一歩進んで倒れそうになったとたんに、すぐに抱きかかえてあなたを元の位置に戻してしまいます。試してみるというのは、善悪の沼に飛び込んでみて、泥だらけになって悪の味を知るということなのに、あなたにはなかなかそれが許されません。 システムによる悪の排除によって、確かにあなたは悪をなさなくなるでしょう。それは社会にとって良いことです。だから、大人は今日も悪の排除を進めるのです。でも、悪をなさないあなたは、善をなしているわけではありません。そして、悪をなさないとしても、それはあなたが悪を克服したことを意味しません。 こんな社会で育ったあなたはまだ、善悪なんて何もわかっていないのかもしれません。わかっていないのにわかったつもりになって自分を善人だと信じているあなたは、結果的に、管理社会にとって都合のいい人間になろうとしています。一生懸命「いい子」を演じてきたあなたにこんなことを言うのは不憫な気もしますが、あなたは今日も、管理社会に加担する、人間の多様な可能性を封じることに躊躇しない人格をみずから育んでいるのです。 コロナ禍を通してこれまで以上に可視化されたのは、いかに大人が自分の力で何が善で何が悪かを見極めようとしないかということです。どんな悪でも、いったん善いこととされてしまうと、それに対して疑いを持たなくなるのです。 易きに流れる大人たちによって形成された世論の奔流は、善悪の判断を保留している人たちに牙をむいて襲い掛かります。人はいったん善に居直ってしまうと、それに疑いを持つこと自体が悪に加担していることなのだと、善に寝返らない人たちを責め立てるのです。 しかし、善悪とは何かという問いは、決して簡単に割り切れるようなものではありません。割り切れないからこそ、善悪の審判は自ずと戦略的なゲームの結果として、言い換えれば、政治的な暴力によって下されるわけで、賢明な人たちはその場面こそを注視しなければならないはずです。 それなのに、大人はその複雑な構造を見ることはせずに、悪を実体化することを通して、自分を善の側に置こうとします。だから、私たちが一番に警戒すべきなのは、みずからを善人と確信して、悪人を裁く人です。さらに、悪人にも事情があるはずだと、悪人を憐れむ人です。